3

ドンへの背中を見つめながら、たどり着いたのはマンションだった。
いかにも高級そうな、立派なマンション。


「ここ、俺のうち…」


へらっと力なく微笑んだドンへは、
腕で頬の血を拭った。

どうしてそんな傷ができたのか。
ヒョクチェがそう聞く前に、ドンへが口を開く。


「学校、来てないんでしょ?」

「…え……」

「どうして来ないの?ヒョクチェ」



ドンへの瞳の奥で、アイツらが笑っている。
ドンへはそれに操られた様に、俺を嘲笑う様な目をしている。



―どうして、俺の名前を…



でも、いくらそう考えたって、たどり着くのは一本の道だけだった。


ばれてしまった。気づかれてしまった。
ドンへだけには、気づいてほしくなかったのに。



「…俺のこと、知ってんだろ、全部…」

「違う。全部は知らない。名前だけだよ」

「嘘、つくなよ…」

「嘘じゃない」

「…っじゃあなんでッ…」



何で俺を助けたの―――?





零れた涙は、静かに頬を伝う。
あまりに静かすぎるから、俺は一瞬、時が止まったんじゃないかと思った。



せんせい…――――


もう届かない。絶対に届かない。
せんせい。ねえ、どうして俺を置いていくの――?



「……なか、入ろっか。」



ドンへの手が、俺の背中を包む。
気が付いたら抱きしめられていて、肺一杯に入り込むのは、
そこら辺の高い香水よりも、甘くて優しい匂い。


俺はドンへに支えられるがまま、マンションへと入っていった。




 *******



「入って。散らかってるけど…」


苦笑いで俺を招き入れたドンへは、俺の背中をとんっと軽く押した。
それがなんでか分からないまま、首を傾げて俺は部屋に入る。


『散らかってるけど…』


そう言ったドンへの言葉を軽々と飛び越えて、その部屋は足場もなかった。

無残にも散らばる教科書。しわくちゃのまま放置されている服。
食べかけのスナック菓子の袋。転がる栄養ドリンクのビン。


「…お前、よく生活できんな…」


俺がしぶしぶと言うと、ドンへはクスッと笑った。

意外と綺麗に笑うんだな、そう思ってドンへの笑顔を眺めていると、
ドンへはまた、悲しそうに俺を見つめる。


どうしてそんなに悲しい顔をするんだろう。
どうしてそんなに悲しい瞳で俺を見るんだろう。


せんせいが、俺を見つめるときみたいに。



「――俺、ここには住んでないよ」

「…え…」

「俺、売春やってるから。」



バイシュン。



その言葉が、まるで言葉を覚えたての赤ん坊が言っているみたいに耳に入る。


驚きと疑問が入り混じった視線でドンへを見ると、
ドンへはまた、悲しそうに笑った。


「ヒョクチェだって、そうなんじゃないの?」



ドンへが、
ドンへがあまりにも、悲しい瞳で俺を見つめてくるから。

助けて、と、俺に訴えてくるから。


俺はただ、ドンへの目からしたしたと落ちる涙を必死で拭った。



「…やっぱりお前、俺のこと知ってんじゃん…」

「うん、ごめん…」

「何で、嘘ついたの…?」

「…ヒョクチェが、泣くと思った……」



ひくひくと喉を鳴らしながら泣いているドンへに、
俺は何もしてあげられない。

ただ涙を拭ってやることしかできなくて、それがすごく悔しくて。




―――助け、て…





泣いているのは、俺?ドンへ?









俺はまだ、ドンへのことを何も知らない。


知っているのは、

ただ同じ学校の同じ学年ってことと、

学校で何かにあっているということと、

家に帰ってきていないということと、

バイシュンをやっているということ。




そしてドンへも、誰かに助けてほしいってこと。





「ねえ、ヒョクチェ…」



涙でいっぱいになった瞳で、ドンへは俺を見つめる。
やっぱりすごく悲しそうだけど、いつもとは違った瞳だった。


「許して、ヒョクチェ…」



俺がドンへの背中を擦ると、ドンへは只管「ごめん」を繰り返す。

どうして謝るのか分からないから、俺はただ涙を拭って、背中を擦った。



「ヒョクチェ、ごめんね…」



ドンへの涙が、勢いをつけて一気に溢れだした、その刹那。



部屋のドアが、ゆっくりと、重たく開いた。



「……お前が、イ・ヒョクチェか?」




黒いスーツに身を包んだ細身の男が、
いきなり部屋に入ってくる。

驚いて振り向くと、男は仮面をかぶっていて、その表情が見えない。



男は俺の腕を掴んで顔を寄せ、まじまじと舐めるように俺の顔を凝視する。



「よくやった、ドンへ」



男は俺の腕を離すと、仮面をとってドンへを見据えた。

仮面の男は、女じゃないかって程の美人で、綺麗で、俺は言葉を失う。



「…ありがとうございます、ヒョン」



言葉を失った俺の背中に、ドンへの機械的な声がぶつかる。



何も分からない。



ドンへは、助けてほしいんじゃないの?

俺と一緒じゃないの?



ねえ、ドンへ―――




「ドンへ、そいつを連れてこい」



その声にハッとなって俺はドンへを振り返る。



ドンへはまた、悲しそうな瞳で、俺を見つめていた。










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